自己紹介

【プロフィール】80歳まで月収50万円稼ぎ続けて老後ビンボー回避!バリキャリ ”りあ”はこんな人

初めまして

老後ビンボー回避のためにセカンドキャリア構築中のバリキャリ”りあ”です!

プロフィールをご覧いただきありがとうございます!

私は某メーカーの営業部で管理職をしているアラフィフです。

特別な才能はありませんが、
ガッツ』と『転んでもタダでは起きない、あざと先読み脳!
でここまできました。

気付けば、”男性と対等に戦う”のが当たり前に・・。

そんな私が今、一番怯えていることは
老後ビンボーになってしまうこと』。

私、根拠もなく、バリキャリで男性管理職と同等に稼いでいたら、

”老後も安泰”って誤解をしていたんです。

年金や、言われている額の貯蓄を目指していればいいと思っていたので。

でも、”老後破綻”いう言葉を耳にしてなんというパワーワード!!!

調べてみると確かに年金は想像以上に少ない。っていうか、どんなにたくさん年金納めて

いても、実際に貰う額の差ってないんですよね、ご存じでしたか?・・・。

これ、ホリエモン(堀江貴文さん)もYouTubeでご自身のマイナポータル見ながら、

年金額が厚生年金合わせても”1ヶ月15万円程度”って言っていたので結構間違いない情報・・
よくも悪くも日本は”スーパー平等”なんですね!(ガックリ)

ちなみに、日本の老後世帯の平均支出額が33万円(住宅ローン返済無し、月15,000円の
住居費と条件)ですから、年金と同額の自己資金準備が必要なんです。

実に年間約220万円。10年で、2,200万円。

バリーちゃん
バリーちゃん
65歳から年金受給開始しても
75歳までしかお金ありませんけど~~

となりますよ。この記事を見て

とまどう人
とまどう人
しまった!
年金定期便の見方もよくわからないし、考えていなかった

というあなた!とりあえず年金はタシ程度に今日から考えましょう!

そして、退職金額もよく規定を確認して計算してみましょう!

その上で、『やばい!!と感じた方、

一緒に今からセカンドキャリア構築を考えましょう!

この記事を書いているバリキャリ・”りあ”は、
得意の
「転んでもタダでは起きない、あざと先読み脳!」 フル活用し、
「80歳まで安定収入を確保し、ビンボー老後を回避する!」という目標達成に向けて
猛スピードで走りはじめています。

このブログを見つけてくださったあなたも、なからず老後に不安を感じて検索
されたのですよね?

大丈夫です!このブログでは、年金も貯金もあてにしない
在宅で月収50万円(税引き後約30万円)を稼ぎ続けるセカンドキャリアの作り方”を
知識ゼロでもわかるように解説します。

真似をしてついてくるだけで、”稼げる在宅ワークスキル”が身につきますので、
老後不安の谷から脱出しましょう。

そう!
”備えはじめるなら、一刻も早い方がいいです”

このような書き出し、”あやしい以外のなにものでもない”と思いますので、

私がなぜこのように考えるようになったのか、自己紹介を通じてご説明したいと思います
ので、しばらくお付き合いください。

基本情報

・名前:りあ
・1978年5月生(47歳)
・A型
・大手食品メーカー勤務・ごく普通の管理職(次長)
・夫、子供2人、
・趣味 美容、買物、旅行、ドラマ鑑賞、Youtube、ヨガ、園芸 etc.

・長所:行動力がある、我慢強い、先読みが得意、あざとい
・短所:心配性、せっかち、強がり、人に甘えるのが下手

自立した女性マインドが形成された幼少期

両親は代々公務員の家系で、二人とも公務員。
私は、いわば “公務員のサラブレッド” として生まれました。


母も例外ではなく、出産後に産休を取得し、すぐに職場復帰。
共働き家庭で育った私は、働くのが当たり前の環境 で育ちました。

とはいえ、母は バリキャリ志向” ではなかった のです。
では、なぜ定年まで働き続けたのか?

それは、父方の祖母の一言・・・

「辞めてどうするの?」 でした。

誤解のないように言うと、祖母は決して嫁いびりをする人ではありません。
むしろ、共働きだった両親の代わりに私を育ててくれた、優しい人。

ただ、祖母自身が 「経済的に自立していないことで苦労した」 という経験があり、
母には 「自立した人生を歩んでほしい」 と強く願っての言葉だったのです。

祖母が“バリキャリ”になった理由

祖母はもともと おっとりした一人娘のお嬢様
大正時代には珍しく 女子大を卒業 し、結婚後は専業主婦として のほほんと暮らしていました。

しかし、祖父が若くして癌(がん)で他界。
当時、私の父はまだ高校生。

「精神的にも金銭的にも自立していない」

祖母は、頼る相手を求めて 未亡人会 に入会。
そこで出会ったのが、未亡人会の会長さん(女性)。

彼女に、「しっかり自立した女性になりなさい!!」 とお尻を叩かれ、
“強い女性” へとガラリと変わったのでした。

祖母の影響を受けた私

そんな祖母と過ごす時間が長かった私は、自然と

「自立した女性であることが当たり前」 という価値観を叩き込まれました。

まさに 「三つ子の魂百まで」私の中には、祖母譲りの バリキャリ魂

しっかりと根づきました。

・祖母が元祖バリキャリ。母は目立つのが苦手な普通の女性。
・祖母に育てられた私は「自立した女性であることが当たり前」という
 価値観を強く叩き込まれた。

夢を見つけた小学時代・夢破れた中学時代

小学生時代ーその①活発だけど、ちょっと反抗期

小学生の私は、とにかく活発。
男兄弟がいたこともあり、遊ぶのはいつも男の子たち。
学校でもクラスの中心で、学級委員も生徒会もやっていました。

「お利口さんタイプ?」 と思うかもしれませんが、それは違います

小4から、学校限定でプチ反抗期。
家では良い子を装い、学校でだけ反抗的な態度を取る、ちょっとタチの悪いタイプ
でした。

そんな私が道をはずれずに済んだのは、小4の時に出会った 憧れの女性教師 の一言が
あったからです。

「不良は、頭が良くて何でもできないとダメ」

この言葉が胸に刺さり、私の支え棒に。

今思えば、この時すでに 「やることをやって文句を言わせない」という考え方が
芽生えていたのかもしれません。

小学生時代ーその②夢を追いかけたバレエの日々

学校外では、まったく別の世界に飛び込んでいました

小1の時に観たクラシックバレエの公演に魅了され、バレリーナを夢見るように。
高学年になると特別レッスン生にも選ばれ、毎日レッスン漬けの日々。
努力の甲斐あって、東京の有名バレエ団の公演にもゲスト出演もさせてもらいました。

しかしながら・・・本気でやればやるほど、現実を思い知らされる。
本物のバレリーナになれる人とは、こういう素質を持った人なんだ と。

中1で、自分の限界を悟りました

自分で諦める決断をしましたが、人生で初めての挫折・・・。
心に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまいました。

抜け殻の中学時代

その後の2年間、部活に入ることもなく帰宅部に。
表向きは活発なままでも、内側はただの抜け殻でした。

・文武両道、怖いものなし。でも反抗期早めだった小学校時代
・バレリーナを夢見るも才能不足。中学1年生で人生初の大挫折。
・大きな夢が破れて抜け殻状態で過ごした中学時代。

高校時代に培った我慢強さ。そして再びの挫折

バレリーナになる夢が破れた私にとって、高校受験は 特にドラマもなく終了。
一応、希望していた学校には入れました。

「さすがに高校では部活くらいやろうかな」 と思い、友人と陸上部を見学。
なぜかそのままの流れで入部しました。

足はそれなりに速い方でしたが、陸上は完全に未経験
「よくやろうと思ったな…」 と、今でも自分でツッコミを入れたくなります。

「苦しいところからが勝負」—陸上競技がくれたもの

ただ、この陸上との出会いが 「苦しいところからが勝負」 という考えを植えつけて
くれました。

自分の限界に毎日向き合う ことで、
我慢強さ
「辛くなってからが本当の勝負!」

という”なにくそ魂”が、自然と身についていたのです。

社会に出てからも、男尊女卑が色濃く残る職場で
管理職の女性は私ただ一人の「紅一点」。

仕事・育児・家事を両立し、50歳目前の今もバリキャリとして
やってこられたのは、
間違いなく陸上のおかげです。

「また思うようにいかなかった」—大学受験の挫折

部活を引退した夏前からは、大学受験に集中。
当時、女性は 「年齢が上がると就職に不利になる」 という時代。
多くの女子が短大を選ぶ中、私は4年制大学への進学を希望していました。

「会計系の資格を取れば、独立できる。就職なんて気にしなくて済む。」
そう考えていたのです。

しかしながら神さまはそう簡単に味方してくれず、

りあ
りあ
「また思うようにいかなかった…」

4年制大学の切符を手にすることはできませんでした。

完璧主義な私は、 たった一つの失敗すら許せず
浪人して再チャレンジするという発想はもまったく浮かびませんでした

・陸上競技で 我慢強さと、辛くなってからが本当の勝負!の
”なにくそ魂”を身に付けた。

・大学受験で人生2度目の大挫折。完璧主義の心が折れる。

短大~就職:就活でリベンジすればいい!で立ち直り

大学受験に失敗した私が出した答えは、
「大手企業に入って人生を一発逆転するしかない!」
そう決めて、短大に進学しました。

短期留学で広がった世界と価値観の変化

1年生の春休みに アメリカへ短期留学
この経験は、私の考え方を大きく変えてくれました。

世界は広い。価値観は多様。
完璧主義なんて、くだらない。
過去に執着するより、未来に向かって行動する方が賢明。

キャリア形成についても日本とアメリカの感覚の差にも気付きました。

というのは、日本では転職するたびに条件が悪化しがちですが、
アメリカは違う。 ”転職=ステップアップのチャンス”だと。

「私もその価値観で進もう!」
そう決意しました。

就活でリベンジ!狙い通りの大手企業へ

迎えた就職活動。
父の 「公務員の血を断て」 という言葉通り、一般企業一本で活動しました。

入学時から 「大手企業に入る!」 と決めていた私は、
✔成績もそれなりに取りつつ
✔ターゲット企業を定めて準備を重ね

その結果、大手電機メーカーへの入社切符を無事に獲得!
しかも、希望していた 宣伝部に配属される幸運まで掴むことができました。

バリキャリスイッチ、完全にオン!

ここから 私の販促・広告系キャリアがスタート。

毎日、紙媒体やテレビCMなどの広告を手掛ける人たちを間近で見て、
「この仕事、めちゃくちゃ面白い!」 と思った瞬間、完全に バリキャリスイッチがオン

こうして私は、マーケティングの世界を渡り歩く人生へと突き進んでいくのでした

・アメリカ留学で価値観に変化。
・就職活動では大手企業への入社切符を手に。やっと人生一発逆転!と感じる。
・宣伝部に配属。販促・広告系を渡っていくきっかけとなった。

23歳~25歳:人生最大の転機

バリキャリ思考の私は、「生涯独身でも問題ない」 と思っていました。
でも、自分のスタンスを変えなくても大丈夫 と思えるパートナーに出会い、23歳で結婚。

海外生活の決断とキャリアチェンジ

結婚の翌年、夫が 数カ月の海外勤務 に。
「ついて行くか、仕事を続けるか?」 選択を迫られました。

正直、数カ月なら 有給や調整で乗り切ることも可能 でした。
でも、当時の私は 「もっとメディアの世界で働きたい!」 という気持ちが強くなっていた。
さらに、留学時に芽生えた「キャリアステップアップ思考」 もあり、
「帰国後に某テレビ局で働く!」 という目標を決めて退職。

こうして、4カ月弱の海外生活へ飛び立ちました。

憧れのメディア業界、でも…

帰国後、某テレビ局での仕事 に就職。
メディアの中核に入れたことで、仕事は想像通り面白かったです!

ですが・・・。

初めて「社員ではない立場」 で働いたことで、次第に強い歯がゆさ を感じるように。

妊娠と、人生の大きな決断

歯がゆさという心の隙間 に入り込むように、数か月後、妊娠が判明
しかも、切迫流産の可能性が同時に発覚 し、即入院することになりました。

体調が整えば 仕事は続けられる雇用条件 だったのですが、
バリキャリ思考の私本来とは全く違う方向の 「仕事を辞め、家庭に入る」
を決断しました。

夫から 最低でも3歳までは家で育ててほしい」 と要望されたことも一因ですが、

それ以上に、生意気にも”決定権を持たせてもらえない歯がゆさ”で心が弱っていたこと、
初めての出産・育児を実家から離れた地でひとりでやり切る自信がなかった”ことが
最大の決断理由でした。

結婚→1社目の会社退職→転職→妊娠・出産で予想外の専業主婦に。

3年の専業主婦を経て社会復帰した26~28歳

専業主婦として過ごした3年間。育児に専念できたことを除けば、
「本来の自分」とはかけ離れた日々 でした。

束縛されるものがない分、

夜は明け方まで大好きなゲーム
朝10時にママ友からの電話で起こされ、公園へ

そんな 怠惰な生活 を送っていました。

眠っていたバリキャリスイッチ、再びオン!

そんな生活も3年目に差し掛かった頃、夫の仕事の都合で 実家近くへの転居が可能 に。

環境が変わると、眠っていたバリキャリスイッチがオン!
「1円にもならない自分から、一刻も早く脱却したい!」

そう強く思うようになりました。

社会復帰へ向けたステップ

いきなりフルタイム復帰ではなく、まず アルバイトで地ならし
1年間の準備期間 を経て、就職活動を開始しました。

これまでの 広告・宣伝系のキャリアとは異なる業界にも拘りたいところでしたが、
なによりも育児と両立できる勤務条件・立地が最優先という考え方になっていました。

こうして、”建設会社の社長秘書兼経営企画室・主任”として計画通り28歳までに社会復帰
しました。

・専業主婦時代は”1円にもならない自分がイヤ!”と思う価値観。
・社会復帰するならキャリア形成を逆算して”28歳までに”と考えていた。
・アルバイトで子育て・家事・仕事の両立の地ならしをした。
・28歳で正社員に返り咲き。やっと自分のえがいたルートに戻れた

31歳~32歳:バリキャリ街道に進むも再び転機

仕事・子育て・家事の両立にも慣れ、順調に過ごしていた31歳、
2人目の妊娠が分かりました。
でも、今度は「仕事を辞める」という選択肢は一切なし

産休と7ヶ月の育休を取得し、職場復帰しました。

しかし、復帰半年後、会社の業績悪化が深刻化

会社は再建策として 拠点を集約する計画を銀行に提出し、承認を得て存続。
でも、移転先まで通えない私は、辞めるしかありませんでした

こうして、再び転職活動へ。

・第2子は社会から離脱せず、産休・育休を取得して職場復帰。
・想定外が発生。社会復帰1社目は会社都合により退社。

33歳~現在:仕事・家事・育児の3刀流バリキャリ

「これが最後の就活にしたい。」

そう決めて数社を見た後、現在の会社に出会い、無事再就職しました。

しかも、総務部門の責任者としてヘッドハンティング される形での入社。
入社後すぐに 部下5名を持つ立場 になりました。

初めてのマネジメントでしたが、これまで出会った 尊敬する上司達や、してもらって
嬉しかったこと
を思い出しながら、自分なりのスタイルを確立。

その結果、過去の経験・知識、会社との相性も後押しし、頑張った分だけ評価され、
毎年昇進!バリキャリ街道を突き進みました

出世街道から2度降りても、”あざと先読み脳”で敗者復活!

でも、どんなに先を読んで準備しても、
早めに動けば解決するレベルじゃないバランスの崩れ が起きることもあります。

事実、私は 2度出世街道を自分で降りる決断をしました

1度目は、娘が『保育所に行きたくない!!』と脱走事件まで起こした時。
昇格を上司にお願いしてストップしてもらいました。
意味もなく私にアンチだった役員からも嫌味を言われるくらい上昇気流
だったのに・・・。

2度目は、新規事業立上げのトップをやらせていただいた時。
仕事も家庭も両立させたかったので、
寝る時間を削って3食(昼もお弁当があった)食事を作ってから会社に出かけるように
していました。
ただ、どう頑張っても新規事業の創業期は事業に時間を割かれるもの。
結局は”家庭を取るか”、”仕事を取るか”という窮地に立ち、列車を降りる決断をしました。

なぜバリキャリのクセにそうしたのか。答えは簡単。

自分の子どもを育てるより大切な仕事は、この世に一つもない」

が結論だったからです。

本当に女性は生きずらいですよね・・・。

バリキャリ経験から学んだこと3つ

といいながら、実は私、
完全にバリキャリを完全に諦めることはしませんでした

なぜなら、子供は年月とともに成長しますし、手も離せるようになるからです。

2度も出世レースを降りた後ですから、正直ダメージはかなりのものでした。

しかしながら、しっかり先を見て、
”虎視眈々と復活”を狙っていたら自分が納得のいくキャリアに戻ることができました

”諦めなければ、行動を止めなければ開ける道ってある”んですよね!

こうして『仕事・育児・家事の3刀流経験から学び、今後の人生でも大事にしたいと思っていることは、下記の3つになります。

1.”選択と集中”。踏ん張るべきタイミングを逃さない。
2.早めに行動を始めれば、復活も軌道修正も可能。
3.自分の大事なことには執着する(こだわる)。

さぁ、次のステージへ!

ここまで私の半生をお伝えしてきましたが、私の思考回路、ご理解いかがでしょうか?

今、私が目指している

80歳まで毎月安定した収入を得られるセカンドキャリアを築き
ビンボー老後を回避する!!” 

は、もしかしたらとりこし苦労で済んでくれるかもしれません。

ですが、1度きりの人生です。早めの備えはプラスになることはあっても
マイナスになることはありませんし、
今度は失敗している時間もバイタリティもありません!!
”いし橋はじゅうぶん叩いて”おきましょう。

定年・老後のスタートを60歳とした場合、”あと10年”余り。

年金制度の不安に怯えながら、削って生きるのか?
それとも、この10年間を有効活用し、セカンドライフでもうひと花咲かせるのか?

どちらを選ぶかは、今の行動次第!

元気なりあ
元気なりあ
いつ動くんですか?? 今でしょ!!

で、「悠々自適でHAPPYな老後」というゴールへ向かって、最短距離で進みましょう!!

この先の記事では、
・私が試行錯誤して見つけた「在宅で稼ぐ秘策」

・同時並行で押さえておきたい制度・情報

など、実践的なノウハウをお伝えしていきます。

バリキャリ・りあ

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